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短編小説『座敷牢の神様』

  僕が最初に神様に出逢ったのはいつだったか。  物心ついた時にはもう、自宅の倉に神様が住んでいる事を知っていた。「誰にも言ってはいけない」と神様に言われていたから、そんな事は両親にも話さなかったけど。  倉の扉を開けると中にはもう一枚、太い木の格子戸がはまっていて、頑丈な鉄の錠前が掛けられていた。神様はその中で、いつも座って本を読んでいた。  神様は僕より四つ歳上の女の子で、なんでも知っていた。 「神様はどうしてそんなに物知りなの?」 「神様だから、なんでも知っているのよ」  もう何度も、そんなやりとりをした。  神様は倉の中から出てこないのに、外のいろんな事を知っていた。街の外れの雑木林で見つけた小さなクワガタを、クワガタの赤ちゃんだと思って神様に見せたら、それはコクワガタといって、それ以上大きくならないのだと教えてくれた。飼っていれば大きくたくましいクワガタになると期待していた僕は少しがっかりしたけれど、これはこれでかわいいので飼うことにした。神様は、クワガタを飼うには虫かごにオガクズを敷き詰めるといいとか、餌はどんなものを食べるとか、いろいろとアドバイスしてくれた。神様のおかげで、僕ははじめて飼うクワガタを、正しく世話してやることができたのだった。  コクワガタを飼いはじめてしばらくたち、だいぶ愛着もわきはじめたある日、僕はコクワガタを筆箱に入れて学校へ持っていった。学校でもそいつと遊びたかったし、友達にも見せてあげたかった。  教室で友達とクワガタを愛でていた時、私は不注意から、クワガタの上に国語辞典を落としてしまった。あわてて辞典をどかしても、クワガタはもう動かなかった。僕はそれから放課後まで、泣いてばかりいた。  家に帰った僕はかばんも置かずに倉へと直行し、神様にクワガタを見せて頼んだ。クワガタを生き返らせて下さい。 「クワガタにはクワガタの神様がいて、クワガタの生き死にはそいつが決める。あたしじゃその子を生き返らせることはできない。悲しいけれど、その子はクワガタの神様に返しましょ」  普段僕が話しかけても、本から目を離さずに受け答えする神様が、この時はまっすぐ僕の方を見つめた。何処に焦点があっているかわからない、またたきひとつしない不思議な目だった。 「クワガタの神様に返すって、どうやるの?」 「笹の葉を持ってきなさい。大きめのものがいいわ」  僕は

連ちゃんパパと阿Q正伝

  『連ちゃんパパ』は、ありま猛によるパチンコ漫画です。  もともとは1994年から1997年にかけて描かれたものだそうですが、新型コロナ感染拡大にともなう外出自粛の中、ちょうどマンガ図書館Zで全話無料公開されていたことから、急激にネットで口コミが広まり、多くの人が読むことになりました。一見ほのぼのとしたタッチの絵とテンポよく進むストーリーは大変読みやすいのですが、主人公の 日之本進 ひのもとすすむ がパチンコ依存症の泥沼の中で周囲を巻き込みながら次々にトラブルに遭遇していく内容の重さと、借金返済や生活のために非道な行為を淡々と行う主人公の異常性から、『スナック感覚で気軽に摂取できる猛毒』などと呼ばれ、賛否両論を巻き起こしました。  日々の生活の大変さによって、一人の人間がどんどん低俗な矮小な人間になっていく様を描く名手といえば、魯迅が挙げられるでしょう。国語の教科書に載ることも多い『故郷』では、少年の頃に一緒に遊んだ友人の閏土と大人になってから再会した主人公は、 閏土 ルントー との間に身分的な隔絶ができており以前のような関係には戻れないことを知るとともに、彼が暮らしていくためのお金や何かのことで思い悩んでばかりいる様を嘆いて、『凡ての苦しみは彼をして一つの木偶とならしめた』(井上紅梅訳)と語っています。  『故郷』よりも連ちゃんパパとの類似性を持つ魯迅作品が『阿Q正伝』です。主人公の阿Qは家を持たず日雇いの仕事で暮らす貧しい男ですが、連ちゃんパパの主人公の日之本進との最大の共通点は「歯車が狂い始めるまではそれほど問題のある人間ではなかった」という点です。  連ちゃんパパの日之本進は、物語の最初においては高校の教師であり、妻も子供もいてなにも問題のない暮らしをしていました。妻がパチンコで借金を作った上に他所に男を作って逃げたことをきっかけに、彼の転落が始まります。妻を探すために訪れたパチンコ屋で自らもパチンコ依存症となり、返せない借金を負ったり……底なし沼に嵌るように、抜けられない負のスパイラルへと落ちていきます。  阿Q正伝の阿Qはそれと比べると境遇は悪く、最初から住所不定の日雇い労働者なのですが、周囲の人から『お前は何をさせてもソツが無いね』(井上紅梅訳)などと言われることもあったりして、仕事をさせれば問題なくこなす人物であったのです。それが一度歯車が狂いだす

文学としてのヴァイオレット・エヴァーガーデン

  『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンの心の成長を描く物語です。戦争の道具として生きてきて、人間らしい感情を持たなかったヴァイオレットが、人の心を理解していく過程を描いた作品です。  そういう意味では、まだ未成熟な青少年が社会との関わりの中で自己の精神を確立していく『ヴィルヘルム・マイスター』型の教養小説と同じジャンルの物語ということになりますが、本作が特徴的なのは『他者から見たヴァイオレット』が描かれる点でしょう。特にTVシリーズにおいては、各話のはじめに同僚のエリカであったり、養成学校のクラスメイトのルクリアであったり、あるいは依頼人だったりの目の視線からヴァイオレットを描き、それらのキャラクターの内面が描かれた上で、ヴァイオレットは『手紙を書く』ことを通じて彼らの内面を理解していきます。 これは他の『ヴィルヘルム・マイスター』型の作品にはあまり見られないことで、例えば『デミアン』においても、主人公エーミール・シンクレールはデミアンやピストーリウス、クナウエル、エヴァ夫人などの登場人物たちと関わり合うなかで自己を確立していくのですが、そういった人物たちの内面はあまり積極的には描かれず、あくまでエーミールの内面を描くことに徹しています。  今回の劇場版公開に先立ってTVシリーズが再放送された際、本作品を観返しながらそんな特徴に気づいたわけなのですが、なぜそんな作りになっているのかは分かりませんでした。単に、ヴァイオレットの心の成長を描くのに周囲の人物にスポットを当てるのは珍しいタイプの物語だなと思っただけで、その手法が持つ効果には気づいていなかったのです。  今回の劇場版をみて、やっとその意味に気づきました。TVシリーズと特別編を視聴済みの一般視聴者たちは、彼女がどんな境遇の人に、どのように共感することでその精神を成長させて来たか、それをつぶさに観てきたことで、彼女が作中の出来事に対しどのような思いを抱くか、その心の動きがめちゃくちゃ分かるのです。だって、我々もTVシリーズ全13話と特別編を通して、依頼人たちにヴァイオレットと同じように共感するように訓練されてきたのですから。  これって、『ヴィルヘルム・マイスター』型文学の歴史上、画期的なことなんじゃないでしょうか。一人の人間の心の成長を描く物語で、あえてその周囲の複数

短編小説『カンダタ』

 小高い丘の上に座って、十五歳のカンダタはぼんやりと景色を見つめていた。ここからは、有刺鉄線の張り巡らされた高い鉄壁の向こうがかろうじて見渡せる。鉄壁に守られた施設には、ちょうど富裕層の子弟達が大勢、見学に訪れていた。 「軌道エレベータは、その着想自体は非常に昔から考えられておりましたが、技術的な問題から永らく実現できずにいました。最大の課題は、地表から静止軌道上まで長いロープをたらすと、その全重量はとてつもなく重い、ということでした。それほど重く長いロープは、並大抵の素材で作れば自重で切れてしまいます。軌道エレベータに使用できるほどの引っ張り強度をもつ素材が開発されるには、二十一世紀まで待たねばなりませんでした。  素材問題解決のヒントとなったのは、クモの糸でした。クモの糸はその細さに比して信じられないほどの強度を持っています。このクモの糸を細かく分析してみると、結晶構造とアモルファス構造が非常に複雑に混成した構造となっていることが分かりました。この研究結果を、カーボンナノチューブなどの頑丈な素材の技術と組み合わせることにより、ついに軌道エレベータを実現しうる炭素の結晶‐アモルファス混成構造体が完成しました。その後、国家の境を越えた世界規模のビッグプロジェクトによって、エクアドルに世界最初の軌道エレベータが完成しました。その後赤道付近を中心に各地で相次いで建設がなされ、ここ南インドに十二基目の軌道エレベータが完成するとともに、軌道エレベータ計画は完了を迎えました。言ってみれば、これは宇宙から地球に垂らされた、巨大なクモの糸なのです……」  富裕層の子弟に向けたその施設の説明を、カンダタはよく理解できなかった。だが丘の上から見る限り、子弟たちは真剣に説明に聞き入っているようだった。そりゃ真剣にもなるだろうさ。とカンダタは思った。彼らは、選抜試験にさえ受かればあのエレベータに乗って、この厳しい気候の地表から逃れることができるんだから。  鉄壁に古ぼけた梯子を立てかけ、よじ登っていく老人が見えた。梯子は低いから、到底鉄壁を登りきることはできない。だが登りきることが老人の目的ではなかったようだ。彼は懐から大きなニッパーを取り出し、有刺鉄線に刃を立てた。  高圧電流の流れる有刺鉄線が金属の刃に触れ、おびただしい火花が散る。驚いて梯子から落ちそうになった老人は、しかし何とか有