短編小説『カンダタ』

 小高い丘の上に座って、十五歳のカンダタはぼんやりと景色を見つめていた。ここからは、有刺鉄線の張り巡らされた高い鉄壁の向こうがかろうじて見渡せる。鉄壁に守られた施設には、ちょうど富裕層の子弟達が大勢、見学に訪れていた。


「軌道エレベータは、その着想自体は非常に昔から考えられておりましたが、技術的な問題から永らく実現できずにいました。最大の課題は、地表から静止軌道上まで長いロープをたらすと、その全重量はとてつもなく重い、ということでした。それほど重く長いロープは、並大抵の素材で作れば自重で切れてしまいます。軌道エレベータに使用できるほどの引っ張り強度をもつ素材が開発されるには、二十一世紀まで待たねばなりませんでした。

 素材問題解決のヒントとなったのは、クモの糸でした。クモの糸はその細さに比して信じられないほどの強度を持っています。このクモの糸を細かく分析してみると、結晶構造とアモルファス構造が非常に複雑に混成した構造となっていることが分かりました。この研究結果を、カーボンナノチューブなどの頑丈な素材の技術と組み合わせることにより、ついに軌道エレベータを実現しうる炭素の結晶‐アモルファス混成構造体が完成しました。その後、国家の境を越えた世界規模のビッグプロジェクトによって、エクアドルに世界最初の軌道エレベータが完成しました。その後赤道付近を中心に各地で相次いで建設がなされ、ここ南インドに十二基目の軌道エレベータが完成するとともに、軌道エレベータ計画は完了を迎えました。言ってみれば、これは宇宙から地球に垂らされた、巨大なクモの糸なのです……」


 富裕層の子弟に向けたその施設の説明を、カンダタはよく理解できなかった。だが丘の上から見る限り、子弟たちは真剣に説明に聞き入っているようだった。そりゃ真剣にもなるだろうさ。とカンダタは思った。彼らは、選抜試験にさえ受かればあのエレベータに乗って、この厳しい気候の地表から逃れることができるんだから。


 鉄壁に古ぼけた梯子を立てかけ、よじ登っていく老人が見えた。梯子は低いから、到底鉄壁を登りきることはできない。だが登りきることが老人の目的ではなかったようだ。彼は懐から大きなニッパーを取り出し、有刺鉄線に刃を立てた。

 高圧電流の流れる有刺鉄線が金属の刃に触れ、おびただしい火花が散る。驚いて梯子から落ちそうになった老人は、しかし何とか有刺鉄線を切断する。今度は少し離れたところに梯子を立てかけ直し、もう一度ニッパーの刃を立てる。五mほどの有刺鉄線が、壁から大地へと落ちる。

 たちまち、施設の中から警棒を持った屈強な男が二名、老人のほうへと疾駆してくる。老人は大慌てで梯子と有刺鉄線を回収し、一目散に駆け出すが、屈強な男達は俊敏で、みるみる距離が縮まっていく。

 カンダタは丘に転がるこぶし大の石を拾うと、鉄壁のほうへと投擲した。屈強な男の一人がこめかみを抑えてうずくまる。もう一度投げる。これも見事もう一人に命中し、老人は命からがら逃げ出すことに成功した。

 丘の下の貧民街の入り口まで逃げおおせ、ぜいぜいと肩で息をしている老人に、カンダタは近づいていった。


「長老みずからコソドロか。しかもそんなつまらないものを」


 カンダタが憎まれ口をたたくと、老人はしばらく息を整えた後、「つまらないものじゃないさ」と反論した。


「畑を拡張するには、こいつがたくさん必要なんだ。地蜘蛛党じぐもとうの連中は畑仕事自体に消極的だから、有刺鉄線を盗むのも手伝っちゃくれんがね」


 地蜘蛛党はこの貧民街の孤児達のグループで、カンダタはそのリーダーだ。長老はカンダタの親代わりのような存在で、地蜘蛛党に畑仕事を指導しているが、地蜘蛛党の畑は非常に小さく、生産できる作物は構成員が食べていくためには全く足りない。だから構成員達は地味な畑仕事よりも、手っ取り早く食料や金目のものを盗むほうに精を出している。

 カンダタとて、畑を拡張して収量を増やすことで、窃盗や略奪の回数を減らすことができれば、地蜘蛛党のためにもその方が良いことは分かる。盗みを繰り返すたびに自警団や武装した警備員に追われ、怪我をするものが出る。時と場合によっては死人さえ出る。ならば盗み以外の、安全に食料を調達できる手段があったほうが良い。

 だが問題は山積だ。ひとつはカンダタが生まれる何十年も前から続く異常気象によって作物が育ちにくいこと。もうひとつは畑を拡張するには荒地を開墾せねばならず、これに大変な労力がかかること。そして、せっかく作った作物を盗もうとするやつがいること。

 有刺鉄線はその盗もうとするやつへの対策なのだが、当然鉄線を切ったり乗り越えたりするものも出てくる。そうまでして盗みに来たやつは、見張りがその後をつけていってどこの誰かを見定め、後日地蜘蛛党全員による報復が行われる。有刺鉄線は見張りが窃盗犯に気づくまでの時間稼ぎに過ぎず、本当の防犯対策は暴力による制裁なのだ。

 とはいえ、その制裁を行う際にも地蜘蛛党に怪我人が出ることも少なくない。現時点では、畑は地蜘蛛党の安定のために役に立っているか疑問だ。とカンダタは思う。長老は、畑の拡張とともに農法を工夫して単位面積当たりの収量を増やす。ゆくゆくは地蜘蛛党以外の人々にも開墾を行ってもらって、窃盗をせねば生きていけない人を減らすと言っているが、実現には途方もない時間がかかりそうだ。


「あんたにとっての十年はこれまでの人生の八分の一にも満たないが、俺ら地蜘蛛党のほとんどのものにとっては今までの人生の半分以上だ。十年後の安定のために畑を耕すなんていわれても、遠い未来のことに思えるのさ」


 老人に水筒の水を与えながら、カンダタは言った。立場上構成員達に畑仕事をきちんとするよう命じてはいるが、カンダタ自身、この努力が実を結ぶのは遥か未来のことに思え、いまいち乗り気になれていないのだった。


「しかし去年の飢饉の時は、収穫した馬鈴薯ばれいしょが役に立ったじゃないか。地蜘蛛党以外の連中にも分け与えてやったりして」


 たしかに去年、南インド全土であらゆる食料が欠乏する大飢饉となった際は、地蜘蛛党の食料庫から近隣の貧民に食料をわずかばかりわけてやった。普段は暴力に明け暮れる地蜘蛛党があの時ばかりは感謝されたものだったが。


「畑で収穫した馬鈴薯だけなら、俺達が喰う分にも足りていなかった。分け与えた食料の多くは、略奪して備蓄しておいた小麦や豆だ」


 長老は反論できず、ごまかすように鉄壁のほうを見やった。ちょうどそのとき鉄壁の中央にある門が開き、枯草色の装甲車がこちらへ向かってきた。


「S…C…I…C…宇宙コロニー統合評議会の車じゃないか。貧民街になんの用だろう」


 装甲車の前面に記された、カンダタには読めない異国の文字を読み上げて、長老は呟いた。宇宙コロニー統合評議会というのが何なのかもカンダタには分からないが、あの軌道エレベータの上端にある宇宙コロニーから来た誰かが乗っているということなのだろう。地上の富裕層ですら近づかない貧民街に、宇宙コロニーの住人が来訪するのは、確かに奇妙なことだった。

 装甲車はカンダタ達の眼前で停車すると、その武骨なドアを開いた。中からは黒い防弾チョッキを着た男四人と、スーツ姿の男一人が降りてきた。スーツの男は真っ直ぐに長老を見据えると、一礼して言った。


「NPO『舎利弗しゃりほつ』元代表の中村一道さんですね」


 長老は首を横に振る。


「舎利弗は解散したし、かつて名乗った名前にも意味はない。ここにいるのはただの『長老』だ」


 スーツの男はしかし、あくまで長老から目をそらさない。


「とにかく、来ていただきましょう」


 長老は、いかにも困ったなあ、という風に、頬をぽりぽりと掻いた。


「先ほど私が、有刺鉄線を盗んだ件についてかね?」

「いえ、カンダタ君の将来に関する話です」


 スーツ男からカンダタの名が出た瞬間、長老の目が厳しくなった。


「お前はここで待て」


 カンダタにそう言い残すと、長老はスーツ男の方へ進み出た。防弾チョッキの男達が長老を取り囲み、装甲車へと乗せた。

 来た時より一人多い乗客を乗せて装甲車は走り去り、後にはカンダタが独り残された。



「まずお訊ねしたいのですが、なぜ貧民街などにお住まいになっているのです? 舎利弗の行った社会貢献を考えれば、あなたは宇宙コロニーに住んでしかるべき人間だ」


 鉄壁の向こう、貧民街とは別世界のような空調の効いた建物の中で、黒スーツの男は長老に訊ねた。

「仕事が終わっとらんからな。この世から飢餓をなくすのが私の仕事だ」


 長老は、差し出された珈琲を一口飲んだ。珈琲を飲むのも数十年ぶりだ。懐かしい芳醇な香り、飲み下してもほんのりと残るほろ苦さ。こういった嗜好品や娯楽の一切を捨てたのは、嗜好品どころか生きるための最低限の食料にさえありつけない人々のために他ならない。


「それではあなたの仕事は永遠に終わらないことになります。歴史上、飢餓のなかった時代は存在しないし、これからも存在し得ないですから」

「知ってるよ。だが理想の状態に近づけることはできる。だから私は、理想に近づけようと努力しとるんだ」


 珈琲を飲み干し、長老は言った。黒スーツの男はそんな長老を理解できないという表情で見つめ、本題に入った。


「今日の主題はそのことではないのです。我々SCICが、地上から若い人材を募集していることはご存知でしょう」


 長老はうなずく。宇宙コロニーは、十年以上前から深刻な高齢化に悩まされている。豊か過ぎる社会というのは、例外なく少子化するものらしい。子供を生まないまま老人になる男女が増え、若い労働力が不足しているのだ。

 そのため、地上世界の学生達に選抜試験を行い、試験を通過した優秀な若者を宇宙コロニーに招き入れることで、コロニーの若返りを図ろうとしているのだ。そんなことは長老も、カンダタでさえも知っていたが、選抜試験を受けられるのは学校へ行けるごく一握りの富裕層だけだ。地上の大多数を占める貧民には関係がない。

 しかし続いて黒スーツが告げた言葉は、長老の想像を超えたものだった。


「SCICが誇る適正評価システムの分析によると、まさにカンダタ君こそ、宇宙コロニーに招聘しょうへいすべき人材だということがわかりました。つきましては、カンダタ君に宇宙コロニーに来ていただけるように、あなたからも説得していただきたいのです」


 どういうことだ、長老は狼狽した。宇宙コロニーへ迎え入れる若者を選ぶ選抜試験は、基本的には教養の度合いを測るものだ。教育を受けていないカンダタはそもそも選抜試験の受験資格がないし、たとえ受験しても受かるわけがない。一体、なぜ彼が選ばれたのか。


「従来続けてきた選抜試験には、二つの問題が生じました。ひとつは、学校へ子弟を通わせられる地上の富裕層の間にも少子高齢化が進行し始めたこと。もうひとつは、試験でよい点を取ることだけに長けた、画一的な人材しか獲得できなかったことです。

 従来の選抜試験で選び出した若者達は、みな一様に博識で、計算能力が高く、論述もうまかった。反面、みな一様に創意工夫する能力に欠け、大胆な変化を嫌う傾向があった。決められたシステムの中で歯車のひとつとして働いてもらうには悪くない人材ですが、企業のトップやSCICの評議委員などのように、システムそのものの問題点を精査して、その問題点をどのように修正すればどれだけの効果が得られるかを考え、しかもその修正を断行できる大胆さが求められる人材はいなかったのです。さらに困ったことに、宇宙コロニーで生まれるわずかばかりの若者達にも、同様の傾向がありました。これでは宇宙コロニーは、羊飼いのいない羊の群れになってしまいます。

 そこで我々SCICは、十二あるすべてのコロニーの最高の頭脳を結集し、我々の羊飼いになり得る人物は誰なのかを分析する適正評価システムを作り上げました。そのシステムがはじき出した答えが、地蜘蛛党を見事に組織運営しているカンダタ君だったのです」


 ばかげている。長老は反論した。


「カンダタは地蜘蛛党の頭目としてはこの上なく優秀だが、それは地蜘蛛党のようなならず者の集団をまとめる能力があるということであって、コロニーの羊たちを率いる能力とは別だ。構成員に集団の和を乱すものがいれば鉄拳制裁を食らわすこともあるし、自分達のためなら他人から平気で略奪も行う。コロニーでそれをやったら大混乱が生じるぞ」

「彼は自分達の組織にとって必要な手段を選んでいるに過ぎません。彼が地蜘蛛党の構成員に手をあげるのは口で言っても分からない相手に限られています。コロニーのおとなしすぎる羊達は口で言われただけで従うでしょう。略奪行為も貧民からは決して奪わず、わざわざ警戒の厳重な富裕層の持ち物を狙っている。畑で食料を生産できるようになってからはその分略奪も減っているし、飢饉の際には貧民に自分達の食料を分け与えてすらいる。

 彼の行動を客観的に見ると、彼は『富裕層』『地蜘蛛党』『他の貧民』それぞれの持つリソース量を把握し、平均化するような行動を取っている。いわば『富の再配分』という、かつて地上にも存在した政府が行っていた機能を彼が担っているおかげで、一見治安の悪いこの地域の人口当たり死者数は、他のどの地域より有意に少ない。彼が、この地域の資源のマネジメントをしているのですよ」


 彼にそんな意識はない。と反駁はんばくしながらも、長老の心は揺れ動いていた。たしかに、彼は人々の持つ財産を平均化しようなどとは考えていないが、略奪の際は富める者から盗るという信条を持っていることも確かだった。加えて、飢饉の時には食料を分け与える正義感も持っている。本人にその気がなくても、結果的に彼は最大多数の最大幸福のための行動を行っているのだ。


「彼の行動が地域にとってプラスに働くのは、資源が圧倒的に足りていないこういう社会だけだ。資源が有り余るコロニーで彼がその正義感を発揮したら、やりすぎと思える行動を取るだろう。

 第一、彼はコロニーだけの利益を考えて行動などしないぞ。彼の性格を考えたら、コロニーの資源を地上の貧民に分け与えようとするだろう」

「我々は、我々の作り上げた適正評価システムを信頼しています。適切な教育を施せば、彼はコロニーのやり方に適応することができるでしょう。我々はまた、我々の教育システムについてもある程度は信頼しています。カンダタ君のような傑出した人材を生み出すことはできなくても、カンダタ君をわれらにふさわしい指導者に育て上げるくらいはできる、とね」


 それに、と黒スーツは続けた。


「コロニーの維持に支障がない程度ならば、地上世界に富を分け与えるのも悪くはない、とSCICは考えています。地上世界に全く依存せずにコロニーだけで存続し続けられる域には、まだ我々は至っていない。ゆえに地上世界の繁栄は我々にとっても利益となる。そのために我々が地上への支援に使えるコストはどれくらいか、その分水嶺がどこかを決められる人材にカンダタ君がもしなってくれるならば、そんな有難いことはないですね」


 その言葉を聞いて、長老はもはや決心した。カンダタが宇宙コロニーで指導的立場に就き、その富を地上の貧民に分け与えてくれる可能性に、賭けることにしたのだ。


「わかった。カンダタを説得しよう」


 カンダタの後継として地蜘蛛党を率いるのは誰になるだろうか。ザワヒカだろうか。ザワヒカは私の言うことなど聞きはしないだろうから、私も地蜘蛛党を去らねばな。長老はそんなことを考えた。


 長老が装甲車で鉄壁の向こうへ連れ去られて間もなく、独りになるのを待っていたかのようにカンダタに話しかける者があった。

「よう大将。ちょっと話があるんだが」


 継ぎも当てないボロボロの服をまとった、一目で貧民とわかるひげ面の男だ。カンダタに声をかける貧民は、二種類に限られていた。カンダタに報復したい敵グループか、カンダタや地蜘蛛党を利用したい詐欺師だ。


「警戒するんじゃねえよ。俺は革命軍のモンだ」


 革命軍は、貧民・富裕層・コロニー住民と、事実上三つの階級に分かれてしまった現代社会に反抗し、人類の平等を訴える組織だ。とはいえ、実際にやっていることは富裕層の人間をさらって、身代金を要求したり拘束されている仲間の解放を要求したりするだけで、社会を変えるための活動など何一つ行っていなかった。おそらく今回も、富裕層の誘拐に地蜘蛛党を利用しようとして近づいたのだろう。

 そう思って無視して立ち去ろうとしたカンダタの背中に、「あの長老って野郎、お前を捨ててコロニーに逃げるつもりだぜ」という言葉が投げかけられた。

 ぴたり、とカンダタは歩みを止める。


「さっきの連中とのやり取り、見てたぜ。あいつら長老のこと『舎利弗』のナカムラって言ってたな。俺らの仕入れた情報と一緒だ。舎利弗のナカムラって言やあ、昔、国だの国連だのが機能してたころ、ノーベル平和賞とかいう賞を受賞した奴だ。本来なら宇宙コロニーに住んでる人間だよ」

「……だとしたら、なぜ今まで貧民街なんかに居た? そしてなぜ今になってコロニーへ逃げる?」


 感情を押し殺した声でカンダタは訊ねる。


「お偉い人の気まぐれじゃねえかな。貧民街に住んでたのは。だがそんな気まぐれを続けていられなくなった。俺の調べじゃ、富裕層の連中は今後十年でさらなる異常気象が起こり、地上は旱魃・洪水その他あらゆる災害に見舞われると予測してるそうだぜ。当然作物も不作で食糧不足に拍車がかかる。だからとうとう逃げ出すわけさ。お前らを残してな」


 革命軍の言うことなど、いつもなら疑ってかかるカンダタだったが、長老に宇宙コロニーの人間が会いに来たという不自然さが、その判断力を奪っていた。そんな大災害を一切知らせず、自分だけさっさと逃げる長老が許せなかった。そんなカンダタの様子を見て取った革命軍の男は、すかさずこんなことを口にした。


「大災害後の食料不足を緩和し、長老にも一泡吹かせる方法があるぜ」


 男の言う方法とは、飛行機に乗って軌道エレベータの軌道に体当たりし、己の命と引き換えに軌道を破壊することだった。地上は食糧不足だというのに、SCICは地上でしか生産できない何品目かの食料を大量に購入していた。その対価はすべて富裕層に支払われる上、教育や娯楽など形のないもので支払われる部分も多い。対してSCICから富裕層を含めた地上民が購入する食料はほぼゼロ。つまり、軌道エレベータさえなければ地上に留まる食料は増えるのだ。軌道エレベータを破壊すれば長老もコロニーへ行くことはできないし、一石二鳥と言える。


「幸いにして、そのために必要な飛行機は手に入れた。軌道エレベータに近づく飛行物体は、宇宙と地上双方から迎撃されるが、宇宙コロニー上の迎撃ミサイルの有効射程は上空九千mより上で、地上にある八.八cm対空砲の有効射程は上空八千m以下。その間の八千~九千mの範囲では、高速で動く物体への命中精度が非常に低くなる。我々は高度九千mを時速五〇〇kmで航行可能な一人乗り飛行機を手に入れた。しかも、航路を事前にプログラムして自動運転が可能だ。

 高度八五〇〇mまで上昇してから最大速度で軌道エレベータに突っ込むプログラムも完了していてあとは実行するだけなんだがね。ただ一つ問題があって、自動操縦といえども一応操縦士が一人乗っていないと動かないようにできているんだ。我々革命軍は戦闘で死ぬことは覚悟していても、必ず死ぬと分かっているフライトをする勇気がない。そこで南インド一の勇者であるカンダタ君を見込んで相談なんだが、君がこの飛行機に乗って、軌道エレベータを破壊してくれないか」


 カンダタは長老への怒りと、来るべき大災害のことで頭がいっぱいだった。今まで以上の食糧不足など起こったら、生きていくだけでも難しい地獄が始まるだろう。そんな世界で苦しみながら生きるか、それとも死して今後の食糧不足軽減に微力ながら貢献するか。


「……やろう。飛行機はどこだ」


 腹を決めたカンダタを、革命軍の男はニヤニヤしながら褒め称えた。


 カンダタの搭乗した飛行機は、軌道エレベータを守る鉄壁からそう遠くないところから飛び立ったが、高度と速度を上げるためしばらく大回りで周囲を旋回した。高度八五〇〇mに到達し、速度も性能限界の五〇〇kmに達すると、一気に鉄壁の向こうへと直進した。

 上下の迎撃システムの有効射程から外れているとはいえ、まったくミサイルが届かないわけではない。命中精度が有効射程内より低いというだけだ。さらに時速五〇〇kmというのは軌道エレベータの防衛システムの想定を上回っており、革命軍の試算では、この高度と速度であれば迎撃システムの命中率は一〇%まで低下するはずとのことだった。

 それでも一〇%だ。撃墜される可能性はある。後は神に祈るしかない。カンダタは神を信じていなかったが、そんな存在がいるのなら祈りたい気分だった。俺達からすべてを奪っていく奴らに、一矢報いさせて下さいと。

  鉄壁の内側の上空に侵入した瞬間から、地表から八.八cm砲の弾丸が浴びせられた。遥か上空からも迎撃ミサイルが降ってくる。幸い、まだ被弾してはいない。

  鉄壁は軌道エレベータの周囲半径二〇kmを囲んでいる。鉄壁を超えてから軌道エレベータまで、時速五〇〇kmで二分強だ。それまでに被弾したら無駄死にになる。

 前方に、視界を縦に二分する細いすじが見えた。あれがエレベータの軌道だ。軌道は見る見るうちに目前に迫り、ついに接触した。

 フロントガラスが割れ、機体がひしゃげ、漏れ出した燃料がエンジンを濡らし爆発が起こる。炭素の結晶‐アモルファス混成構造体でできた軌道は破断し、重力にしたがって落ちていく。落下した軌道や航空機の部品は地上の施設を破壊し、地上は阿鼻叫喚の様相を呈す。

 炎上した施設の消火や怪我人の救助に大わらわの作業員達を、長老は呆然として見つめることしかできなかった。

(完)


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